デビルマンの救いのないラストに衝撃を受けた

Netflixで『Devilman crybaby』を視聴しました。地上波では放送できないであろうエログロ描写がツボにハマって一気に全話見ました。最終話の1つ前の第9話のラストが衝撃で、ハッピーエンドとして解釈する余地もなく、ただただ救いがなかったです。今まで映画やアニメをみるときは無意識にラストの予定調和を前提にしていたんだなと気づきました。

Netflix版はいくつかオリジナル要素が加えられていますが、骨子は原作通りです。原作が発表されたのは1972年、『サイボーグ009』などが放送されていた時期です。商業的なストーリーのお約束がまだ確立されておらず、創作者たちが表現の可能性を模索していた時期なんだと思います。私は自分自身を斜に構えた見方をするほうだと思っていましたが、物語が表現できる様々な可能性をごっそりと削ぎ落とした環境で育ってきたようです。

 このことがきっかけとなり、私の人生にも予定調和がもたらされることを、無意識に前提としていたのではないか、という疑念が生じました。世界ではコロナが流行し、外出自粛の影響で経済にも大きな影響がでています。この問題には私自身は微塵も力が及びませんが、世の中のものすごく頭のいい人たちがなんとかしてくれるだろうと楽観視しています。来年にはワクチンが開発され、数年後には世界中に行き渡るような供給体制が構築され、収束を迎えると想定しています。

この予定調和が果たして本当に訪れるのか、デビルマンが描いた救いのない世界に触れてからは疑わしく思えてきました。効果のあるワクチンは開発されるのか、ワクチンの供給体制は整うのか、それまで経済はもちこたえるのか、私の生活は持続可能なのか。

筋書き通りには進まない現実の世界で、予定調和を期待することは愚かかもしれません。日々の生活とその少し先の生活と、世界が向かう先に目を向け、生きていくことが大切なのだと、創作の黎明期の活力が生み出した作品をきっかけに気づきました。